エタイさんにとっての性

※AI変換

エタイさんの性癖との向き合い方

エタイさんにとって、性はとても大切な価値観の一つなのだ。だからこそ問題行動に耽溺しながらも正しい性知識を欲し、逆に正しい性知識を身につけながら問題行動に耽溺していたのだ。

性癖は、それ自体が他人を傷つけることがあるのだ。実際エタイさんは性癖によって他人を傷つけたのだが、それは生きるために必要な処世術だったのだ。それを尊重されたことで初めて回復に向かうことができたのだ。

エタイさんは孤独でない性を恐れていたのだ(今もそうかもしれない)。孤独だったから問題行動によって他人をめちゃくちゃにしようとしたのだ。しかし今は、セクシュアルリカバリープラン(性的回復計画)によって建設的で愛のある性を生活の中に統合できるようにしたいと思っているのだ。それがエタイさんにとっては、左のAIイラストのような性表現だったり、大学時代に書いていた二次創作エロ小説だったりするのだ。また、過去にはAV動画編集やエロ同人関係の仕事もしていたので、性表現の仕事の再開も考えているのだ。

エタイさんのセクシュアリティ

性的指向はいわゆるヘテロセクシュアル(異性愛)なのだ。

性的嗜好は尿系なのだ。小学2年生の頃にクラスメイトの粗相を見てしまったことから、その刺激で定着してしまい現在に至っているのだ。

アライさん界隈ドチャシコぐにゃぐにゃ異常性癖部に所属。

性癖とはその人間の人格である

エタイさんにとっての性癖は命よりも大事な価値観なのだ。たしかに常人には理解しがたいものなのだが、依存症者にとってそれは「処世術」であり、それがいかなるものであろうと、たとえそれが人を傷つけた過去があろうとも、その価値観自体も「自分」なのだから生存戦略として尊重されるべきだとエタイさんは思うのだ。

これを「性犯罪を肯定している」と誤読してはいけないのだ。性のあり方を肯定することは性犯罪を肯定することにはならないのだ。それを混同して自分の解像度が低いだけなのを棚上げして人格否定をするなら、それは差別主義者の姿なのだ。

しかし差別主義者であることもまた「処世術」なのだ。人格否定は絶対悪だが、それをしてしまった過去も生存戦略として尊重されるべきなのだ。

性癖や性の傷つけの過去の尊重と性犯罪の否定は両立するのだ。この両立があって初めて更生ができるのだ。

「ナナとカオル」第101話 失われた誇り② より引用

エタイさんと女性不信/ミソジニー

エタイさんは自分の性癖にコンプレックスを持っていたと同時に、その根源にある女性不信そしてその派生であるミソジニーに対するコンプレックスを持っていたのだ。だから女性がこういう意見があったら基本的には言いなりみたいな状態で、女性に人生を明け渡すようなことをしていたのだ。

性的嗜好に関しては過去の性犯罪を女性に受け入れられた成功体験があったのでそれで受容することができたのだが、女性不信はそれでもコンプレックスが拭えず、彼女がいたこともない、35歳過ぎて恋愛経験がないと云々、自助グループに繋がってからも4年以上そんな話に辟易していたのだ。ダル絡みしてくる性犯罪叩きフェミニスト、ミサンドリーを拗らせた風俗嬢、そいつらに汚されていくタイムライン(それは自分で招いた結果なのだが)、そしてステップ9の埋め合わせで叩き起こされるトラウマの数々……ある日エタイさんはもういいやと思って性犯罪叩きにガチギレしてレスバを再発し、それと同時に自分の根底にある女性への差別意識を自助グループで思いっきりぶちまけ、Twitterでも抑えるのをやめて少しずつ言語化してぶちまけてやったのだ。

しかし、そういうエタイさんをフレンズたちは見てくれていたのだ。以前より確実に良くなっていると評価してくれている…そんなことエタイさんは思いもしなかったのだ。そしてそれをミーティングで分かち合い、それが癒やしになった仲間もいたのだ。結局のところ、自分がそういうコンプレックスを持っていることは自認できていても正直になりきれていなかっただけのことだったのだ。

考えてみれば、ミサンドリー/ミソジニーはそれ自体が善とか悪ではなく、よってその思想は尊重されるべきであり否定するものではないのだ。そしてそれは差別を否定することと両立するのだ。Twitterでは小山(狂)さんろくでなし子さん既にいなくなった茂澄遙人さんなど、自らの異常性をありのままに受容して発信している人がいるじゃないか。彼らと比べるべくもないがエタイさんもそうなるのだ、どうせ叩かれるなら吹っ切れてやればいいと思ったのだ。エタイさんは自分の異常性を表に出して、それを表現すればいいじゃないか。

それが自分を救っていく、大切にしていくことになるのだとエタイさんは悟ったのだ。