エタイさんの12ステップ

自助グループのイメージ ※AI変換

エタイさんのステップのあゆみ

このページは、エタイさんが12ステッププログラムに取り組んで回復してきた記録なのだ。

依存症からの回復は、スピリチュアルプログラムが必要不可欠なのだ。なぜなら依存症とは、自分に起きた出来事や意味やメッセージといった見えない力(依存症治療では「神の意思」と呼んでいる)をすべて無視して自分本位で生き続けてきた結果だからなのだ。つまり依存症者は究極の自己中であり、それゆえに完全に頭が狂っているのだ。またこれは進行性の病であり、放っておけば死に至る病気なのだ。そこが他の精神疾患とは別格なのだ。

性依存・恋愛依存は依存症の中でも別格中の別格なのだ。それは自分が性という人間の尊厳を破壊されたことを原体験としているため、他人の尊厳を破壊することを処世術にしてもなんとも思わない病気だからなのだ。それほどの病気なので、他の依存症と違って頭がおかしすぎて同じスピリチュアルな対処法でも宗教を根本に生きること自体ができないのだ。だから依存症に特化した「12ステッププログラム」が不可欠なのだ。

なお、12ステップは信じる神が宗教である必要がないので宗教ではないのだ。これが20年以上の信仰を持つエタイさんが安心してプログラムに取り組める理由なのだ。

エタイさんのステップ1:もうダメだと観念する 2020.8

1.私たちは性的強迫症に対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。 

エタイさんはまず徹底的に自分の無力さを認めて降伏し、打ち拉がなければならなかったのだ。

無力を認めるとは、

「自分の経験や力では自分の人生を思い通りにできたことなど一度たりともなかった、すべて自分の思い通りに生きようと振る舞った結果が依存症であり、それは自分で招き寄せたものだ」

と認めることなのだ。誰しもが自分の意志は自分でコントロールすることはできないのだ。

我々は意志が弱いから依存が辞められないのではなく、むしろ鋼鉄の意志を以て依存行為にふけっているのだ。依存だけでなく今までやることなすことすべてが、自分の意思と本能の暴走だったのだ。それに対処する方法など存在しないことを徹底的に認めて頭に叩き込むことが重要だったのだ。

エタイさんの敗北宣言

このステップをやっていたエタイさんは当時、障害年金の申請で申立書を書いていたのだ。つまり自分史を書くことにあたるのだが、これによっていかに自分が過酷で辛い人生を送ってきたか(いかに自分の人生が思い通りにならなかったか)を明らかにして認めたのだ。

自分の辛い過去を呼び起こして話すことは、ミーティングで普段からやっていたのだ。だからそこは難なくいけたのだ。

ただそれを大袈裟に書く必要はあったのだ。生きづらさを抱えていると防御反応で感情を感じないようになっているから、思った以上に辛く苦しかったと盛るくらいが自分の本当の感情に近くなるのだ。結果、障害年金は2級で通ったのだ。

エタイさんのステップ2:信仰が魔法ではないことに絶望する 2020.9

2.自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。 

依存症者の大嫌いな「神様」の登場なのだ。そもそも依存症者やACがなぜ宗教アレルギーを持っているのかというと、両親という絶対的存在に愛されなかった故に神仏という絶対的存在を信じられないからなのだ。人間は両親の愛を感じた延長線上に神仏の愛を感じることができるのだ。

自分の持てる物をすべて使っても人生がどうにもならないなら、必然的に頼みをする以外にはないのだ。ただそれは特定のである必要はなく、自分を超えた大きな力(ハイヤーパワー)であればどんな抽象的なものでもいいのだ。

重要なのは、健康な心に戻してくれると信じることなのだ。

不可知論者エタイさんの誤った信仰

エタイさんは引き続き障害年金の申立書を書いていたのだ。小学校6年間、学年中の女子に徹底的にいじめられたことを認めざるを得なくなったのだ。つまりそれは、エタイさんがこの歳になっても彼女ができたことがないのは努力不足などではなく、幼少期のいじめによる禍根であることを認めた上で、努力という人力ではどうにもならない現実を受け入れなければならないということだったのだ。

人力がダメなら、自分を裏切り続けてきた(と自分が思い込んでいる)他人やに頼るしかないのだ。これは何よりも苦痛なのだ。エタイさんがそれまで約20年間祈ってきたことといえば、得てして「自分は変わらずに他人がすべて変わって欲しい」という魔法のようなことだったのだ。そう、エタイさんはは魔法であって欲しい、は魔法ではないことを絶対に受け入れたくない、必死に祈れば自分にが宿って魔法が使えるようになり何でもできるという鋼鉄の思い込みを以て20年も信仰を続けていたのだ。だから信仰しているのに思い通りに生きることができなかったのだ。

は魔法ではないのだ。その現実を突きつけられたとき、エタイさんが人生で積み上げてきた信念が音を立てて崩れ去ったのだ。

エタイさんのステップ3:神になろうとする自分をどうにか抑える 2020.11

3.私たちの意志と生きかたを、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。 

に委ねるしかないと思ったら、行動を起こすしかないのだ。病気のままでいるのか回復したいのかの究極の選択を迫られるのだ。ビッグブック(依存症治療の基本テキスト)には「神が指揮者であり、自分はそれに従う決心をした」とあるのだが、一挙手一投足を神様に従うという決心をしなければならないのだ。

といっても、我々は出家するわけではないのだ。自分の問題行動は自分の意思が暴走した結果なので、そういう渇望が起きたときにどういう行動を取るのか、渇望がどうしようもなければ神様の意思をどう受け取るのか、それを委ねるのだ。そうしていくうちに自分と外界の関係を悪くしていたのがだんだんと少なくなっていくのだ。

信じるという行為は人間に与えられた叡智なのだ。人間は何かを信じなければ生きていけないようにできているのだが、自分自身を信じ(すぎ)た結果が思い通りに行かないボロボロの人生だった、だから自分を信じることを徹底的にやめてを信じるしかないのだ。

エタイさんの神への抵抗

エタイさんは神が魔法ではないという残酷な現実を受け入れるしかなかったのだ。今も全面的に受け入れられているわけではないのだが、神を他人に言われたままに信じること(そうでなければいけないという強迫観念)を捨てたのだ。その時期にちょうど持続化給付金の話が出てきたので、さっそくこれを申請して100万円受給することになり、念願の一人暮らしを始めることができたのだ。いつでもミーティング参加できるし音声について気にすることもないので、毒親の檻を脱出できたのはとても開放感があったのだ。

次にエタイさんの前に立ちはだかったのは、神が魔法使いでないのなら、自分が神になればいいという自己中心的な思考だったのだ。神が自分に宿れば自分が神になれるとさえ思ったのだ。しかし、自分が神ではないといくら頭で否定しようとも、そうして起こした行動によって神のように振る舞っている自分がいたのだ。祈ればどうにかなるものではない、だから行動が必要なのだ。行動を起こすために使うのが祈りなのだ。

エタイさんは、自分が神のように振る舞ってしまうことに対しても無力だったのだ。だから次の行動を起こす必要があったのだ。

エタイさんのステップ4・5(1回目):憂さ晴らしに走ってしまった復讐リスト 2020.11 - 2021.9

4.恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行ない、それを表に作った。

5.神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた。 

回復を願うアディクトにとって関門になるのがこのステップ4・5なのだ。具体的に自分の感情を書き表すとあって、そこには何よりも正直さが求められるステップなのだ。

我々はいままで、誤った生き方をしてきたためにこんな苦しい目に遭ってるのだ。問題行動が止まっただけの上辺だけのしらふではまだ苦しい人生であり、そこから脱するには自分の側の大掃除をしなければならない、つまりは誤った生き方の原因となる自分の感情を明らかにしなければならないのだ。

このステップは4つのリストを使って自分自身の点検をするのだ。恨み/恐れ(被害者側の自分)、性の傷つけ/性以外の傷つけ(加害者側の自分)の4つの視点から本当の自分自身がどうだったかを直視し、それをスポンサーに見てもらうのだ。他人の視点が必要な理由は、自分一人では必ず否認が働くからなのだ。

経験者の厳しい目と神の導きにより、自分が知らなかったとはいえ放置してきてしまった欠点をすべて明らかにすることにより、問題のパターンを見いだすのだ。

エタイさんの底なしの怒りと迷い

繰り返しになるのだが、エタイさんは僅か6歳にして女性という生き物を信用できなくなってしまったのだ。エタイさんは幼い頃から起爆スイッチを残したまま人生を歩んできた故に、このステップに到達したときに怒り由来の喜びに打ち震えたのだ。これで今までこの俺様を傷つけてきた奴らに復讐できる、これより後のステップ8・9の埋め合わせでそいつらの生殺与奪を握り、人生を奪ってやることができると思ったのだ。

恨みのリストは汚い言葉と罵詈雑言で埋まったのだ。恐れのリストは被害者意識で埋まったのだ。そして性と性以外の傷つけリストはスッカラカンでスポンサーにリストを投げたのだ。あとはスポンサーの点検に耐えれば、復讐によって自分の人生を取り戻すことができると信じて疑わなかったのだ。

そしてスポンサーの点検が終わり、手元にはスポンサーの言葉が並んだだけのリストが手元に残ったのだ。エタイさんは自分の性格上の欠点がこれだと言われてもまったくピンと来なかったし、リストを見ても何もわからなかったのだ。

気がつけば、スポンサーはグループを去っていたのだ。元々ここまでと決まっていた仮スポンサーではあったのだが、彼がいなくなってしまったことでスポンサーシップ円満解消から間もなくしてエタイさんはステップから放り出されたような感覚に陥ったのだ。その後、熟考ののち本スポンサーを見つけることはできたのだが、何も分からなくなってしまったエタイさんは進むべき道を失い、ミーティングで毎回のように何かへの怒りをぶつけては被害経験と独力と絶望ばかりを語っていたのだ。

エタイさんのステップ4・5(2回目):今度こそ恐れずに徹底して 2022.12 - 2023.7

棚卸しのやり直しを決意する

この頃のエタイさんは進むべき道を見失ったまま、コンベンション半年前に崩壊寸前となったホームグループのチェアを背負うことになったのだ。迷っていたとはいえ、エタイさんにとって最後の砦であるこのグループを崩壊させるわけには断じていかないとの強い思いが働き、人生を賭けてこの役割を買って出たのだ。

その思いは実ったのだ。グループへの奉仕を続ける中で新しい仲間が定着し、しばらく離れていた仲間が戻ってきて、グループは再び息を吹き返してコンベンションは大成功を収めたのだ。そしてコンベンションをきっかけにまた新しい仲間が繋がってきたのだ。

その仲間の中に、エタイさんが以前に価値観を全否定されて恨んでいた人と同じニオイがしたのだ。そしてその人とその仲間の発言パターンが同じだと気づいたのだ。

これはいったいなんなのだ?その答えはエタイさんのパターンが"呼び寄せている"とすぐに気づいたのだ。エタイさんは何も変わっていなかった、だからチェアの役割を担ったことも、コンベンションで登壇させて頂いたことも、すべてはエタイさんが本当の意味で棚卸しをやるためにハイヤーパワー舞台装置を整えたのだ。それに気づいたエタイさんはすぐにスポンサーに連絡を取ったのだ。棚卸しをやり直したいと申し出てペンを手に取り、今度こそ恐れずに徹底して棚卸表を書き上げたのだ。

恨みのリストには、1回目では恐れて書けなかった人の名前が書かれていたのだ。恐れのリストには、恐れの理由が正当に書いてあったのだ。性の傷つけリストはエタイさんが傷つけた被害者を思い出せる限りびっしりと書いて、性以外の傷つけリストには幼少期のことも誤魔化さずに埋めたのだ。そしてそれをスポンサーにじっくり見てもらい、丁寧に時間をかけた点検によりエタイさんの傾向が見え始めたのだ。

点検が終わると、エタイさんの棚卸表は似たような傾向の言葉が無数に並んでいたのだ。人格や価値観を否定されたことへの感情、そしてその際に自分が撮った本能的な欲求がいくつも書かれ、このリストを整理して言葉を拾い集計したところ、エタイさんの欠点と行動原理は白日の下に晒されたのだ。

エタイさんの性格上の欠点は、承認欲求モンスターそのものだったのだ。承認欲求のためなら利己心にまみれ、自分を上げて他人を落とす、そんな人間だったのだ。それが初めて明るみに出たとき、自分が"何か"に受け入れられたような安心感に打ち震えたのだ。おそらくこれが「自己肯定感」というやつだと思うのだ。エタイさんにはようやく希望の光が見えたのだ。

エタイさんのステップ6・7自由になるための気の遠くなるような修行 2023.8 - 2023.12 - endless

6.こうした性格上の欠点全部を、神に取り除いてもらう準備がすべて整った。

7.私たちの短所を取り除いて下さいと、謙虚に神に求めた。

文献にはこのステップについて「子供と大人を分けるステップ」と書かれているのだ。見つけ出した欠点を修正するには欠点とは逆の行動をする必要があり、そのためには欠点として自分が生きるために必要だった価値観を手放さなければならない、それはとてもつらいことなのだ。

しかしやらなければ大人にはなれないのだ。性格上の欠点の反対の行動は総じて相手に愛を与える行為に繋がり、「愛されるより愛する」ことがここで初めてできる資格を得られるのだ。そして他人に感謝することができるようになる、これが必要なのだ。「ありがとう/ごめんなさいが言える」ことはたいへん重要なのだが、ここでようやく「ありがとう」を言える段階であり、その次が「ごめんなさい」になるのだ。


文献には、ここでステップ1と同様に無力を認めなければならないことが重要とされているのだ。1ではアディクションに対してだったが、6・7では性格上の欠点に対して敗北宣言をするのだ。性格上の欠点がアディクションの引き金になるのだから、より根本療法に近づく対処が求められるのだ。棚卸しの性格上の欠点それぞれに対して利己心には利他を、不正直には正直さを、身勝手さには規律を、恐れには勇気を、配慮の欠如には配慮をそれぞれやっていくのだ。無力だと認める以上は、これを一生に渡って続けなければならないのだ。そして性格上の欠点に対して、ステップ3と同様に神に委ねる決心が必要になるのだ。

このステップは自分自身のメンテナンスであり、乗り物の日常点検なのだ。そしてその前のステップ4・5はいわばオーバーホールで、定期的に続ける必要があるのだ。最初の4・5のワークは自分自身のレストアをしたにすぎないのだ。人間はノーメンテで運用すれば感情を溜め込んで緩やかに壊れていくので日々の点検が必要なのだ。

しかし、この段階のメンテナンスは不具合や消耗を確認しただけにすぎないのだ。不備があったら直ちに部品を交換しなければならないのと同様なのだが、パーツ交換は次のステップであり、ここでやるのは注油やボルトの増し締めのような細部点検なのだな。

そしてこれは修行なのだ。自分の棚卸しとして行動に移す、性格上の欠点を神に取り除いて頂くことを途切れさせないことなのだな。修行であるからには決して怠らず、なにがなんでも続けていくことが重要なのだ。そうしなければ以前の自分に戻ってしまうことを心しておく必要があるのだ。

点検を怠ることは直ちに致命傷に繋がる

12のステップと12の伝統には、このステップに人生の目的が記されているのだ。これはエタイさんの信仰する宗教にもまったく同様の教えが説かれている、その一致には本当に驚くばかりなのだが、世間一般の幸福論の最大公約数のようなものである「幸福とは自分の欲求が満たされている状態」が誤りであり、それを信じて人生がどうにもならなくなったのが我々依存症者であることを改めて思い知らされることになったのだ。

エタイさんは毎日欠かさず信仰上の祈りを実践しているのだが、この祈りで求められることはステップ11に相当することであるため、今の段階ではできなくて当然なのだ。しかしそのことで23年間ずっと悩み続けてはそれができない自分自身を卑下して自己憐憫に陥り、ずっとずっとそのことで自分自身を恨み続け、ハイヤーパワーにも怒りを向け、信仰という「生き方の原理」に繋がっていながら逸脱した人生を送っていたのだ。しかしながらそれでも毎日欠かさず祈りを続けた結果が現在の12ステップ実践による回復であり、曲がりなりにも怠らなかった結果だったのだ。

6・7の日々の棚卸しはこれからの人生の土台にあたる部分であることはエタイさんも頭ではわかっていたのだ。しかし棚卸しを始めて間もなく、忙しさに追われて棚卸しを2週間ほどサボってしまったのだ。するとどうなったか、信仰している宗教のガチの集会に参加するのを完全に忘れていたのだ。これは非常に致命的なことで、生き方の原理から外れるといつの間にか神の意思を捨てて自己の意思の暴走を使うようになる、このことをエタイさんは知っていたからヤバいと思ったのだ。

エタイさんは7月にも同じことをやらかしていてそれで上の人からガチの鬼詰めをされてブチ切れ、スマホを床にたたきつけたことがあるのだが、まさにそれが素の(依存症者の)自分に「戻った」、それが前回だったのだ。今回は組織が変わっているので鬼詰めされたわけではないが、完全に前回と同じパターンなので、このままだとまた同じことの繰り返しになってしまうことに気づいたのだ。そして日々の棚卸しを怠ることが即致命傷となることを思い知らされたのだ。

できなくてもやるしかない

話はここで終わらないのだ。棚卸しをサボっている2週間のあいだ、エタイさんは様々な渇望に襲われていたのだ。Twitter(X)のフォロワーが外でトイレしたのを報告しているのを見てしまい、渇望が起きて恋愛感情が暴走したり、買い物袋をカラスに襲われてガチギレしたり、果てには以前に交流のあった人にブロックされてて殺○計画を立てようとするなど、感情の暴走を自分自身では止めることができず大変なことになってしまったのだ。まさに自分自身のメンテナンスを怠っただけで、瞬く間に4・5の棚卸しをする前の自分に「戻ってしまった」のだ。

エタイさんの信仰している宗教では「信仰から離れると元の宿命に戻る」と20年以上前から教わってきて、実際に組織からいなくなった人がその後ひどい生活苦に陥ったという話を何度も聞かされていたのだが、自分が経験したことがないのでわからなかったのだ。しかし宗教と原理を同じくする12ステップで、エタイさんは「戻る」ことの恐ろしさを始めて体感したのだ。依存症者に逆戻りすれば死が待つだけなのだ。

ステップ3で言われる、なにがなんでもやってみるという決心が必要な理由はここにあるのだ。われわれ依存症者はステップの実践により、どうしようもなかった頃に戻るのを執行猶予されているに過ぎず、したがって本当の意味で生きようと思ったら、祈りと黙想や棚卸しは思うようにできなかったとしても一日たりとも欠いてはならないのだ。そしてそれを続ければ必ず自分の欠点は取り除かれていくことをきっと実感するようになり、その証拠は前もって現れるのだ。エタイさんの場合は、それが依存症者家族の方が助けを求めてきて、それに対応できたことなのだ。日々の棚卸しの実践により、毎日の生活に自己効力感を感じることができるのだ。そうして「やるしかない」との決心を固めたのだ。

エタイさんのステップ89:Now working.

8.私たちが傷つけたすべての⼈の表を作り、その⼈たち全員に進んで埋め合わせをしようとする気持ちになった。

9.その⼈たちやほかの⼈を傷つけない限り、機会あるたびに、その⼈たちに直接埋め合わせをした。

(ステップ実践中)